F1のグリッドガール廃止や、ツールドフランスのポディウムガール廃止検討は、 持てる者に対する、持たざる者の嫉妬だと思う件
こんにちは、管理人Kです。
F1やロードレースを華やかに彩る、グリッドガールやポディウムガールが「性差別に当たる」として廃止論争が起こっています。
(グリッドガールは廃止が決定)
でもこれ、廃止にしたところでいったい誰が得するのでしょうか。
F1レーサーやロードレーサー達は、少なからず彼女たちの存在をモチベーションにしていたはずです。
美女を前にすると、自分でも理解しがたいパワーが湧いてくるものです。
(男とはそういう生き物です。)
また、このグリッドガールやポディウムガール自身も、別に誰かに強制的にやらされていたわけではないでしょう。
レースに何らかの形で関わりたい、
自身のスタイルや美貌でレースに華を添えたい、
さらには自分に注目して欲しい。
こうした思惑で、自ら進んでなった人がほとんどのはずです。
視聴者やファンにとっても、レース場を彩る彼女たちはとても魅力的で、性的な視点はあるにせよ、差別的に見ている人は少ないと思います。
このように、当事者達が必要としているグリッドガールやポディウムガールに対して、なぜ廃止論争が巻き起こるのか。
結局「持てる者に対する、持たざる者の嫉妬」なのだと思います。
自分のルックスに自信がなく、美を強みにできない、グリッドガールになりたくてもなれないような人達が嫉妬し、「セクハラだ」とか「性的差別だ」などと難癖を付けて批判しているだけなのではないでしょうか。
そして、自分はグリッドガールに「なれない」のではなく、差別的職業だからあえて「ならない」のだと、自身を正当化しているとも言えます。
その結果として、グリッドガールに憧れていた女性、グリッドガールをきっかけにモデルや芸能の道に進もうとしていた女性たちの夢を奪っているのです。
当事者の気持ちを無視して、外部の人が単なる嫉妬や無駄な正義感から必要なものを奪っていく。
これはとても無意味で、非生産的な行為です。
が、最近の世の中は建前、理想、倫理ばかりが優先され、現実から目を背ける傾向にあります。
日本のテレビ番組も同様。
「見たい人」よりも、「見たくない人」の意見が優先され、「見たくない人」の意見に合わせたテレビ番組ばかりになっていく。
当然、テレビ番組はつまらなくなっていく一方です。
別にテレビは強制ではないので、見たくなければ見なければいいだけの話なのですが、最近はどうしても自分の思い通りにならなければ気が済まない人が多いようです。
先ほどのF1にしても、テレビ局にしても、当事者を無視し、一部のクレーマーを優先する。
つまり、需要と供給の関係を無視し続けることは、結局は自分たちの首を締めることになる、と管理人は思います。
それでは。